第24回SMILE PROJECTレポート

みなさま、こんにちは。第24回 トレンドマイクロ ウイルスバスター SMILE PROJECT メンバーの程(てい)と申します。 震災から4年4か月が経った今回のプロジェクトは、2015年7月10日(金)~7月12日(日)にかけて、社員14名(男性10名、女性4名)で、宮城県気仙沼市、陸前高田市へ行って参りました。

【はじめに】 メンバーのうち、本プロジェクトが2度目参加の経験者もいれば、ボランティア自体が初めてのメンバーもいましたが、みんなそれぞれの思いで今回の活動に臨んでいました。留学生時代から日本政府や多くの日本の方に支えていただいた私にとって、今回の活動はボランティアというよりも、みなさんへのささやかな恩返しでした。 プロジェクトに参加した私たちはメディアのプロではありません。だからこそ、少しでも違う視点で私たちなりの表現で今回見て聞いて感じたことをみなさまにお伝えできればと思います。これを読んでいただいき、みなさまの心に何か一つでも残り、今後様々な活動のきっかけになっていただければ幸いです。

【1日目】 東京から一ノ関へ、その後マイクロバスで気仙沼を通過して、唐桑半島に向かっていました。バス移動中車窓から眺めていると、青い海に緑の森の美しい景観とともに、いろんな建物に設置された3.11の津波浸水表示板が一緒に目に入ってきました。震災後に新しく建てられた建物もありましたが、意図的に残されていた津波被害にあったガソリンスタンドが印象的でした。割れた窓ガラスに、外壁に飾った時計も震災の時間に止まったままでした。あの時一瞬にして町を飲み込んだのは本当に目の前の美しい海だったことを静かに語ってくれているようで、メンバーみんなが言葉を失いました。 唐桑半島につき、カキ小屋で東京では味わえないほど新鮮でおいしいうに丼とホタテをいただきました。こちらのカキ小屋も震災後ほかのボランティアの方により建て直されたそうです。 昼食後、震災語り部ツアーに参加し、津波で壊滅的な被害を受けたことが報道されていた陸前高田市へ移動しました。その過程で、今回のツアーをガイドしてくれた熊谷さんがその時の様子を語ってくださいましたが、別の地で震災を受け交通機関がマヒした状態のなかヒッチハイクで移動した熊谷さんは、最後に乗せてくれた車の運転手(陸前高田出身者)から「陸前高田がなくなった」と言われたその一言が今でも忘れられないそうです。 移動途中、道路に「過去津波最高水位」のような看板がありましたが、大震災前に既にあったそうです。陸前高田市のような海岸に近い低地には利便性もありますが、本来生活居住地として発展すべきではなかったというご意見もあるそうです。 陸前高田市に着き、「壊滅」という言葉の意味がようやく分かりました。肉眼で見渡せる範囲では、建物がほとんどなく荒涼とした状態でした。復興事業用の巨大ベルトコンベアだけが縦横に渡っており、山から削られた土が運搬され高台の造成を行っていましたが、本格的な復興はまだまだこれからだと感じました。 そのまま「奇跡の一本松」に向かい、荒地に背の高い一本松は遠くからでもとても目立っていました。7万本のうち、唯一津波に耐え切った奇跡の松でしたが、長時間水没していたため枯れてしまい、現在はレプリカとなっています。1億5千万円もかかった保存費について賛否両論がありましたが、あの日のことをいろんな人に伝えるためにも残すべきではないかと思いました。 続いて、3階建てビルの屋上の煙突に登って津波から助かった米沢さんのお話を聞かせていただきました。 米沢さんは当時とほぼ同じ格好で、同じ持ち物でリアルに当日の様子を語ってくださいました。お仕事柄でいつもデジカメを持参しているそうですが、あの時煙突上で津波の様子を16秒間撮影されていました。この16秒の映像は、震災後2年も観ることができなかったそうです。ご自身は奇跡的に生き残りましたが、避難場所の市民会館へ避難されたご両親と弟さんは津波で流されたそうです。実はあの日、ちょうど米沢さんの娘さんのお宮参りで、午前中ご家族と地元の神社に行ってきたばかりだったそうです。これから幸せな時間を楽しみにしていたご家族の様子を語ってくださった米沢さんが一瞬言葉に詰まりました。メンバーの何人かも涙を流しましたが、巨大な津波に押し寄せられる時の恐怖、一瞬の内に大切な家族を失った辛さは経験したご本人しか分からないと思いました。 米沢さんは今でも津波で流されなかった店舗ビルを震災遺構として個人の努力で保管を行っておられ、多くの方に津波の恐ろしさや震災経験を伝え続けておられます。高台が完成されたら、またここに戻って生活したいそうです。震災語り部ツアーの後半は、すがとよ酒店の菅原さんのお話しを聞かせていただきました。菅原さんは大震災でご主人と義理のご両親を失いました。津波から逃げようとしていた際に、階段でご主人に手を伸ばしたその時、目の前でご主人を失ったそうです。自然を前にした人間の弱さを痛感した住民の方々は、高台を造っても本当に津波から避けられるのか、もう少し議論が必要だったのでは、と今でも不安の声が多いそうです。 地震の多い日本ではどこでもこのような震災が起きてもおかしくないので、一人でも多くの方が正しい避難知識を身に着けるべきだと強くアドバイスされました。ツアーの後、ボランティアの方が活動している教室でサメ革ストラップ作りを体験しました。好きなはんこに好きな色を塗ってサメ革に押すだけで完成、子供たちでも簡単に作れるオリジナルストラップ教室でした。いろんなアイディアや形でのボランティア活動が気仙沼を応援している印象を受けていました。夜は地元の方と懇親会をしました。今でもいろんなところからボランティアの方が来ているようですが、継続的な活動はやはりまだ少ないそうです。一回きりの活動はもちろん重要ですが、一つ一つつなげられるように続けることが必要だと感じました。

【2日目】 気仙沼市内では今でも行方不明者が220名いらっしゃるそうです。 そのため、気仙沼復興協会では毎月11日を「月命日」とされ、気仙沼警察署と共同で行方不明者の手がかりや思い出の品などの集中捜索活動をし続けており、今回7月の捜索に私たちも参加しました。 当日、ほかのボランティアの方を含め総勢100名以上が参加し、4班に分けて気仙沼市外尾川河口の砂浜あたりで捜索しました。外尾川河口は地形的に津波で流れてくる可能性は比較的に低いとみられ、ここでの捜索は震災後初めてだといいます。午前午後計3~4時間の集中捜索の結果、骨片と見られるものが三つ見つかりましたが、詳細の鑑定はこれから行われます。 仮に何も見つからなくても、この場所を捜索範囲から外す判断ができるので、決して無駄な活動ではない、と捜索リーダーの方がおっしゃっていました。当日気温が30度以上で、何をどこまで見つけられるかが分からない捜索活動は正直簡単ではありませんでしたが、希望を持ち続けながら小さな積み重ねでも必ず今後の活動につなげていけると思いました。 その後、私たちはフェリーで大島に向かい、スマイルプロジェクトでいつもお世話になる旅館「明海荘」に移動しました。明海荘は去年の夏からようやく震災復旧改修工事が始まり、今年から再開になりました。以前もこちらに訪ねたことのあるメンバーがいましたが、改修後斬新な姿に驚きと感動をしました。旅館のご主人村上さんと女将さんのかよさんがとても温かく私たちを迎え、食べきれないほどのお食事をご用意してくださり、まるで実家に戻った子供たちを迎えるお父さんお母さんのようでした。 震災時、大島は津波だけではなく、広い範囲での火災による甚大な被害を受けました。震災当日、かよさんは気仙沼から大島に戻ろうとした際に震災にあったそうです。震災直後、フェリーや漁船がほとんど流されていたため、大島に移動できる手段が全くなかったといいます。家族と連絡がつかないまま、なんとかしてかよさんが家に戻られたのは5日後だったそうです。 震災直後、明海荘は地元の人たちの避難所でもあり、多くの人々を支えていた大切な場所でした。また、震災後ホタテなどが捕れないため、少しでもお客様においしいものを出したいご夫婦はわざわざ青森まで買付に行っていたそうです。 夜、旅館の庭で大島の漁師の方々と一緒にお食事しました。地元の方は温厚で明るい方々ばかりで、ウクレレを弾きながらみんなで歌い交流を深めました。

【3日目】 最後の日の午前中、私たちはTattonプロジェクトの綿畑で草取りと水やり作業をお手伝いしました。 津波により、多くの農地が塩分で稲作困難になってしまったため、塩害対策として塩分を吸収できる綿を栽培することで、少しずつ農業を再生させる取り組みです。 しかし、塩分が抜けて本格的な稲作ができるまでまだまだ時間がかかり、継続的なサポートが必要だと感じました。特に、今は綿栽培にとって大切な時期だそうですが、炎天下での農作業は思った以上に体力が奪われる作業で、私たちができることはまだたくさんあると思いました。 その後、大島のみなさんとお別れして、フェリーで気仙沼に移動しました。 午後は今回最後の活動である、気仙沼中央公民館で「タブレット教室」の開催でした。こちらの公民館も津波の被害を受け、2階の天井まで水が浸かったそうです。 今回は子供7名と大人3名の方にご参加いただきましたが、簡単なITセキュリティを説明した後、弊社が寄付したiPadを使ってゲームの競争などを遊んでいました。初めてiPadを触る子供もいましたが、あっという間に使いこなせるようになり、最後まで笑い声が絶えない教室になりました。

【SMILE PROJECTを終えて】 3日間、被災者の方々のお話を直接に聞き、メディアで報道されている情報が極一部であることが分かりました。大震災の恐怖や家族友人を一瞬にして失う痛みは経験した方しか分からないと思います。それでも辛い経験を私たちに語り続けるのは、二度とこのような被害が起きないためには、多くの人たちに経験を「伝える」ことこそが大切だと痛感されているからだと思います。 二日目の夜、旅館明海荘の改修再開記念として、弊社は壁時計をプレゼントしました。「新しい時間をスタートできるように頑張ります」と、女将さんのかよさんがそう話してくださったとき、目に光るものがありました。 たくましく前に進もうとされている被災者の方々だからこそ、私たちに大きな力を与えてくださいました。 気仙沼・陸前高田の復興は少しずつ進んでいる中、自分ができる何かを改めて考えさせられた貴重な3日間でした。 陸前高田、気仙沼、大島のみなさま、本当にありがとうございました。また行きます!

活動年月日 2015年7月10日(金)~7月12日(日)